ヒゲおやじの絵日記/心の旅人
第16話「逆転」(下)
絵と文・猪熊燻太郎/提供・朝野家
逆転
 『負けてはならない、頑張るんだ』と、何度も自分に言い聞かせるのだが、師走の寒空の下で明日の米代の当てもない直ニ郎の心は、苦悩で眠れぬ夜が続いていた。
広い大阪の片隅で針にも足らない一本の筆は、直ニ郎の心の形象であり護り(まも)であった。一枚の薄い紙は、直ニ郎の生命であり、宇宙でもあった。必死で描いても描いても、薄幸な家族の上に逆境は襲いかかって来た。
 いつの世も、貧乏で浮かばれない者を見る世間の目は冷たい。その姿は、川に落ちた鼠(ねずみ)が必死で這(は)い上がろうとするが、上から棒でまた突き落とされる様に似ている。
 身も心も疲れて、一家心中を決意した直ニ郎の筆は、もう何の護りにもならなかった。財布をはたいて子供たちに食べさせるうどんが、精一杯の愛情の表現だった。愚痴も言わずに耐えて来てくれた妻や子供たちに感謝し、最後の夜を味わっていた。
 バラック小屋に近づいた靴音が、入口の戸を開けて入って来た。身なりの良い紳士風の男は、外務省の役人だと言う。アメリカ大使館が、直ニ郎の絵を日本の伝統文化の代表として、アメリカ本国に発表したいとのこと。
 何の偏見(へんけん)も先入観にもとらわれない外国の目が、直ニ郎の作品を評価したのだ。直二郎の妻は、顔に手を当てて泣いた。直二郎も拳(こぶし)を握りしめて泣いた。直二郎は、自分の描いた絵を手に取り、月光にかざして見せた。皆、あっと声を発して一点に目が集中した。
“月光に浮かぶ浮世絵”−数日後、日本全国の新聞に次々と載り反響を呼んだ。直二郎の絵は、逆境という炎の中で、焼かれたたかれ、魂の闘争の中で悩みもがき猛(たけ)り泣き、まさに修羅場(しゅらどう)の中から生まれた即菩提(そくぼだい)の名器(めいき)となっていたのだ。
人はいつも、豊かさを求めるあまり、本質を見抜く心を失う。

*このコーナーは毎週日本海新聞で掲載しています

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